敬意を持って”変人の集まり”と称されることの多いガイアックス。ガイアックスカルチャーともいうべきフリー&フラットな環境の中で、誰しもが己の個性にリミットをかけず自由と責任の中で使命を持って行動する。そんな各人の姿勢が、ガイアックスをして”変人の集まり”と称させる所以ではないでしょうか。
ガイアックスを卒業していった”変人”たちのその後の活躍については枚挙にいとまが無く、それぞれが各フィールドで使命を持って活躍しています。
このブログでは、そんなガイアックスの卒業生たちにスポットを当て、それぞれのストーリーを伺っていきます。
今回お話を伺うのは蔵田(高崎)三沙代さん。
蔵田(高崎)三沙代
2006年ガイアックスへ入社。オンラインゲーム事業部海外営業、国内広報を経て、投稿監視(現株式会社アディッシュ)の営業・広報を担当しながら2008年スクールガーディアン事業を立ち上げチームを率いた。全国の私立学校や教育委員会の相談窓口となり、講演活動による啓発事業も精力的に行った。
2012年3月にガイアックスを退職、夫の故郷である愛知県田原市の海辺の農村へ移住。現在は渥美半島のいいとこで親子遊びの会「イドバ 」、新月の日に自由に歌って踊る「FreeDanceFloor」主催。夫とのユニット「uecology(ウエコロジー)」ではセルフビルドの家をウルスコパレスと名づけ終わらない増改築、ヘナとカットだけのサロンUecology Head Health Homeをはじめ、無農薬梅の栽培など、野良仕事をベイスに活動は多岐にわたる。
https://www.uecology-life.com/
9歳、5歳の母。
蔵田さんがガイアックスを卒業した日
「田舎に引っ越します」そう言って、蔵田さんはある日突然ガイアックスを卒業した(ように周りには感じられた)。
蔵田さんは、ガイアックスからカーブアウトしたアディッシュ株式会社のスクールガーディアンを事業を立ち上げ、リーダーとして事業を引っ張ってきた人で、その当時も事業リーダーとしてまさしく”バリバリ”と仕事をし、みんなが憧れる若き女性リーダーだった。
ガイアックス代表の上田さんは当時を振り返ってブログでこのように綴っている。
蔵田三沙代さんというガイアックスの社内でも、かなり仕事のできる女性が、急に会社を辞めて、渥美半島の片田舎に引っ越した。
ナニユエに、田舎に引っ越すのか、全く理解ができなかった。彼女、かなり仕事ができるはずなのに、バカなチョイスをするんだなぁぐらいに思っていた。
今、渥美半島にある田原市という場所で、ビジネスや資本主義とは一線を画した地球と対話をするような暮らしをしている蔵田さん。
2022年の今であれば、地方移住やサステナブルな生き方への理解も深いが、蔵田さんがこの方向転換をしたのは10年も前の話だ。
同じ上田さんのブログにこんな記述がある。
今、思うと、やはり仕事ができる人は、そもそも人生において何が大切なのか、やっぱり正しく把握している。バカなのは、当時、そう感じていた僕の方だったのだ。
彼女が、その渥美半島に引っ越してから、2年に一度ぐらいだろうか、何かあると、その半島にまで、蔵田さんに会いにわざわざ行っている。
蔵田さんは、他の人たちよりも”何か”に気付くのが早い。2歩も3歩も早い。
そんな蔵田さんのガイアックスとの出会いから、今の暮らしや学生時代のこと、原点となる子供時代のこと、これからのことまでたっぷりお伺いしました。
直感で決めたガイアックスへの入社と学生時代から感じてきたこと
ー おはようございます!わぁ。背景の絵が素敵!
夫がサロンをやっていて、今そこにいます。
ー そうなんですね。今日はガイアックス卒業生ブログのインタビューということで、気楽な感じでおしゃべりできればいなと思ってます。よろしくお願いします!
よろしくお願いします!
ー 早速なんですけど、三沙代さんはどういった経緯でガイアックスに入社することになったんですか?
2006年に新卒でガイアックスに入社しました。大学4年生で就職活動をしている時にIT系の社長が来て喋るセミナーがあって、上田さんの話を聞いて面白いなと思ったのが最初の出会いです。
その後、渋谷でも説明会があって、上田さんの話をもう一度聞いて「あ、ますます面白いな」と感じて。それから、当時は木村さんや松井さんが人事をしていたんですけど、会う人会う人、また面白くて、どんどんガイアックスに惹かれていったという感じです。
ー 就職活動していたということは、他の会社の選考も受けていたのでしょうか?
インターンをしていた会社があって、そこの採用も決まりそうだったんですけど、実はガイアックスの採用がかなり早めにもう決まっている状態だったんですよね。
私は直感タイプなので「ガイアックスいいなぁ。多分私この会社に来ます!」という感じでガイアックスへの入社を決めちゃいましたね。
ー かなり直感ですね!何か学生時代にやっていた研究や活動とガイアックスが結びついて、とかそういったことは?
学生時代からインターネットコミュニティには慣れ親しんでいて、その時に感じていた疑問とガイアックスの人と人を繋げるというミッションとが重なるところがあるかもしれません。
今でもすごく覚えていることがあるんですけど、ガイアックスの個別セミナーがあって上田さんが一通りしゃべった後に質問をしたんですね。
「インターネットコミュニティがどんどん進化してくと、多様性がマッチングされて、色々な人と知り合えて自分の趣味や嗜好がどんどん深掘りできて…っていうのは分かるんだけど、実際に隣にいる、今この地域で隣に住んでいるっていうような物理的・身体的な”隣にいる”っていう感覚はどういう扱いになっていくのか?」
というのをすごく疑問に思っていて、それを質問しました。
上田さんがどう回答したかは‥、忘れました(笑)。
ー コロナ禍を経て、オンラインでの対面が普及した今だからこそ、その感覚わかるなぁと思うのですが学生時代ということは15年近く前からこの感覚に気付いていたってことですよね。
そうですね、この疑問は本当にずっと感じていました。
ー バリバリ仕事をしていた三沙代さんが、ガイアックスを卒業する時に「結構な田舎に引っ越す」という話を聞いて、実のところ「あれ?どうしたんだろう?」と感じていたのですが、今のエピソードを聞いて少しつながりが見えてきた気がします。後ほどそこもじっくり伺いたいです。
こっちに来てちょうど10年になるんですけど、今、このテーマを”体感している”気がしています。
それと同時に、過去の”ガイアックスにいた頃の自分”とガイアックスを出て”こっちに軸を貼っている自分”とが統合されている感覚があります。
過去の自分と今の自分がつながって今の私として表現しはじめている、そんな感覚です。
ガイアックスで学んだ「信頼感」と「自分をさらけ出すこと」
ー 直感で決めたガイアックスへの入社ですが、どのような仕事に携わってきましたか?
最初はゲーム事業部にいました!オンラインゲームを海外に展開しようという戦略があって、最初の上司はさべさん(株式会社アドレス代表取締役 佐別当 隆志)で、ナターシャ(ブランド推進室責任者 Natalia Davydova)や、今上海にいる泰くんと一緒に仕事をしていました。
いきなり海外営業(笑)。なので、入社1年目から3週間東南アジアに行っているような生活でしたね。夜中に会社に泊まってアメリカに電話をかけたりだとか、そんなことをしていました。
ー 昔のガイアックスの営業って今考えるとちょっとブラックな気がしてしまいます…。
でも、それは自分で全て決めてやっていたんですよね。
「私、今日は夜海外に電話したいので昼間は休みます」というような感じで。
入社1年目から、そういう風に全て自分で決めて仕事をしていました。
ー あぁ、そうかぁ(笑)
そうそう(笑)。その後ゲーム事業は売却することになって、売却先の会社に出向していた時期もありました。それが入社1年目の終わりくらいですね。
ー なんだか、1年目から大分波乱万丈ですね。
そうそう、波乱万丈!当時上司のさべさんとも喧嘩ばっかりしてましたね。みんなから見える廊下の丸テーブルでさべさんと喧嘩して泣いて、ナターシャが”よしよし”してくれるみたいな(笑)かなり激しかったですね。
そこから、出向先で国内ゲームのマーケティング部門に入って、当時萌え系のオンラインゲームを売り出し中だったので、そのプロモーションに携わることになりました。
秋葉原にイメージキャラクターのアイドル3人を連れてネットカフェに営業する、みたいなことをやっていました。
ー えっ(笑)。そんなことやってたんですか。知らなかった…。
秋葉原で萌え系のイベントプロデュースを手伝うとか、そんなこともありました。
ちょっと自分とのミスマッチに悩んでもいましたけどね(笑)。
ー そんな新卒時代があって(笑)、スクールガーディアン事業はどういった経緯やきっかけで立ち上げることになったのでしょうか?
ゲームの仕事で悩んでたんですよ。「萌え系のゲームはちょっと…。この事業についていくのは無理かも。」と思って。
そんな時に、当時投稿監視やユーザサポートの事業をやっていた江戸さん(アディッシュ株式会社・代表取締役 江戸 浩樹)に拾ってもらいました。
最初は50%ゲーム事業、もう50%は江戸さんのチームに投下するというような形で、徐々に江戸さんのチームに入っていきました。これが2年目くらいの時です。
最初は投稿監視の法人営業を担当していて、この事業に携わっているうちにちょうど「ネットいじめ」の問題が報道されるようになってきました。
そういうものに触れていると「これはガイアックスで解決しないといけないことでは?!」と奮い立つものがあって、上田さんや江戸さん、当時CTOの鳥居さん達にその思いを話したのがきっかけです。
ー そもそも、スクールガーディアン事業の元ネタみたいなところは三沙代さんが提案したんですね。
そうですね。そんな風に話をしたら「じゃぁ、やろうよ」「で、蔵田さんやってくれるんだよね?」ってなって(笑)。
ー ガイアックスあるあるですね(笑)
それで「じゃぁ、わからないけど、やりましょう!」ということで、まずは学校関係者に話を聞いてみるところから始めました。
上田さんが当時校長先生だった品川女子学院の漆先生と親しくしていたので、フィールド調査のような形でお話を聞かせて頂いたり、モデル校になってもらったりしました。
わからない事だらけだったので、「一緒に学校裏サイトの調査やその対応をやらせて下さい」というのが最初の一歩でした。
ー そういう経緯だったんですね。その課題に気付いた背景にはどういったことがあったのでしょうか?
もともと正義感や責任感が強いところがあるんですよね。投稿監視の営業をやっていて、そういう問題をはらんでいるということを知ってしまった以上、ガイアックスでやらないと!と思ってしまったんですね。
それと、日頃から上田さんが「社会課題をみつけて、解決していくのがベンチャーの事業の始まりだ」と言っていたので、これはもうやるしかないと思いましたね。
私自身にも少し経験があって。大学時代300人規模のダンスサークルに入っていて、当時はmixiが流行っていました。公演の準備を仕切っている立場でしたが、当時mixiの掲示板に運営への不満が書かれていることがありました。
そういった経験からも、デジタルツールのプラスの面・マイナスの面その両方を受け止めて文化として育てて行くのがガイアックスの仕事だと思っていました。
ー 今のお話を伺って、三沙代さんが全体会議の発表の時に「こども達に、ただデジタルツールを禁止するのではなくて、その良い面も併せて教えていく必要がある」という話をしていたことを思い出しました。当時は「学校裏サイト=インターネット禁止」という風潮だったので現場に立っている三沙代さんのその言葉がすごく響いたことを覚えています。
あ、嬉しいです。
ー スクールガーディアン事業を立ち上げて、事業リーダとして活躍していた三沙代さんですが、ガイアックスにはトータルで何年在籍してたんでしょう?
えーっと、6年ですね。
ー あれ、感覚的に意外と短い感じがしました(笑)。その6年間を振り返って、感じていることを教えてください。
今、私は“ただの三沙代”として生きているんですね。でもガイアックスを経てしか今の私はないと思っていて、本当にガイアックスで学んだことは沢山あります。
一番学んだと感じているのは「仲間と何かを進めて行くこと」「チームワーク」、そしてそのチームワークをしていくにあたって「自分をさらけ出すこと」や、そのさらに前提としての信頼感です。
その信頼感は「まずは自分がさらけ出すこと」でもあると思うのですが、なんというか「思いついたらすぐ言っちゃって良い」ということ「まだ固まっていないんですけど」「ジャストアイデアなんですけど」という状態でも、とりあえず自分から出しちゃうこと。
そうやって出してみると、必要だったらそれが育っていくということ、チームによって育っていくということ、この「チームで何かを成長させていく経験」が一番学んだことだと感じています。
一人ではできないということなんですよね。今のガイアックスはもっと流動的になっていると思うのですが、組織であるからこそできる、ここは変わらないんじゃないかと思います。
ー そう思います。逆にガイアックスのここは…というところは何かありますか?
ガイアックスのというより、これはすべての産業の構造だと思うんですけど、お客さんが付いていると事業を思いっきり畳んだり思いっきり転換することが難しいということですかね。
スクールガーディアンの事業でそれに打ちひしがれて結構悩みましたね。
今は大分変わっていると思うのですが、当時はスクールガーディアン事業が学校に入っていくとそれを口実にインターネットを禁止してしまうような学校が多かったんです。
デジタルツールを子供達から取り上げるという考え方は時代にも合ってないし、問題を見えなくするだけだと考えていたから、そこには葛藤があっていつも悩んでいました。
ー そうだったんですね。そういった葛藤が生活をガラッと変えるきっかけになったりしたんでしょうか?
そうですね。完全な”個”になりたかったというのがあると思います。
私自身、ガイアックスという名前をなんだか背負っちゃっていたところがあったから。「ガイアックス」の「スクールガーディアン」の「事業責任者」の蔵田三沙代ですっていう形で全国をセミナーで回っていたりしたので、公の場やSNSで気軽な発言もそうできないですし。
それと、さっき話していた事業としてやる以上、自分だけの判断だけで何かをガラッと変えることができないという葛藤も含めて「完全な個」になりたかったんです。
ー 以前上田さん含めた対談ブログの中で、「蔵田さんは”資本主義・ビジネス”の軸から別の軸に移った」という表現がされていました。
「生活するということ」これは、私たちが毎日やっていることだからそこに責任を持ちたいと考えるようになりました。
東日本大震災が実は結構大きなきっかけで、あの震災を経験してそれが確信に変わったように思います。
個で生き、地球と対話しながら暮らすこと
ー 東日本大震災もきっかけの一つだったんですね。
そうですね。一番のきっかけは今の夫と出会ったことですけどね。
自分自身のチャレンジとして「個で生きていくこと」をやってみたいと思いました。資本主義的な価値感ではなく、自然の一部として生きること、暮らしについて一つ一つの構造を自分で知って作って行く、作って行くことで知って学んでいくということをやっています。
ー ちなみに…旦那さんとはどうやって知り合ったんですか?田原市にいらっしゃる旦那さんと三沙代さんの接点ってどこだったんだろうって思って(笑)
旅先で出会いました!
ー えー?旅先で!?
そうそう。私ガイアックスにいる時から「旅行に行くので1週間休みます」というタイプだったんですよ。それで旅先で出会いました。
夫も東京で美容師やヘアメイクの仕事をしていたのですが、東京での生活に限界を感じて「自然の多い地元に帰って生活する」ことを決めた後に私と出会って。だから最初から遠距離恋愛でしたよ。
ー そうだったんですね。自然に還りたいとか、個になりたいという三沙代さんの思いと、運命の出会いが重なって、えいやーでガイアックス卒業を決めたような感じですか?
事業も結構育ってきていたというのもありますし、スクールガーディアンで扱っているようなネット上での子供の問題って、そもそもの子供の心の問題がネット上に現れてしまっているだけなんですよね。
子供達が普段生きてる中で「自己肯定感が低い」とか「もっと愛されたい」とか「あの子にいじめられてイライラしてる」とか…、なんかそういう現実の心の問題が表れてるだけと考えると、本当にこれは自分が子供を持ってみないとなんとも答えられないなと思い悩んでいました。
それで、1年掛けて事業を引き継いで行こうと思っていた最中に自分自身の妊娠がわかったこともあって妊娠8ヶ月くらいまでガイアックスで勤務して、こっちに来ることになりました。
ー そういった経緯を経て、今、三沙代さんは地球と対話しながら暮らしているなと感じでいるのですが、サステナビリティだったり、地球に対してこんな貢献をしたいというようなことは何か考えていらっしゃいますか?
毎日最善を生きるってことしかないなと思っています。例えば、海を散歩していてゴミを見つけたらいつも拾っていますし、自分でもの作りをする時であれば、なるべく薬品を使わないようにしたり、畑をやるにも無農薬でやったりだとか。
夫の美容室も、カラーとパーマをやめて、カットとヘナだけをやるというシンプルな形にしています。
そんな風に「なるべくシンプルに少なく」「人が関わる工程がより少ない」という選択をするようにしていますね。
美容室もスローペースで良い感じにやっています。完全予約制で午後に美容室のお客さんが来て、午前中は野良仕事をしてというようなペースです。
ー 野良仕事!?
そうそう(笑)。辺り一面畑なんですよ。田原市は農業王国で、お義父さんが退職後にやっていた畑を一部譲ってもらって、40本くらいある梅の木を夫と二人で手入れしたりしています。
果実も豊富で家中果実だらけです。Tiny Peace Kitchen(*1)にも送ってジュースにしてもらったりしましたね。
それと、実は住む家も自分たちで作っているんですよ。セルフビルドはライフワークですね。
(*1)Tiny Peace Kitchen…ガイアックス本社(Nagatacho GRiD)1階のカフェ。2020年10月惜しまれつつ閉店。
ー 本当に地球と対話しながら暮らしているなと感じました。
本当にそうですね。そういう暮らしをしています。
踊ること・歌うこと・自分を愛すること。
ー 冒頭で、ガイアックスでの6年間と今の暮らしがつながっていると感じているというお話がありました。学生時代から疑問に感じていた「隣にいる」の答えは見つかりましたか?
スクールガーディアンの悩みを背負った状態でガイアックスを卒業した時、自分の中に浮かんだのが「身体性」という3文字でした。
デジタル世界の中で伴わない「身体性」というものがこれからの時代どうなっていくのかということが自分としてのテーマになるなと思いました。
こっちに来て、土を耕したり、木を切ったり、本当に体を以てでしか体験出来ないことをずっとやってきて「身体」というものがあってこそ、自分の魂があると感じるようになりました。自然とつながるのも「身体」や「呼吸」だと体感しています。
実は、3年前からダンスを再開したのですが、ますますそれを強く感じるようになりました。
もちろん、私もインターネットを使いますし、子供達も学校でタブレットを使う時代ですが、だからこそ「身体性」や、原始的な感覚こそが、時代のテーマだと思っています。
今、私は完全に「ローカル&フィジカル」なんですよね。ガイアックスにいたら「オンライン&デジタル」だと思うのですが、私は今この田原市にいて、この身体を以てできることをやりたいと強く感じています。
ー 「身体性」というキーワード。確かに、ここ2年くらいでオンラインで人と会うようになって何か欠けているな、と感じるようになりました。
そうそう。ますますそう感じると思うんですよね。
ー ダンスを再開したというお話もでてきましたが、どのようなダンスをやっているのですか?
自由ダンスです。振り付けなしで、音楽を1時間くらいかけてひたすら踊る場を作っています。
「身体だけになる体験・身体だけになる時間と空間」と私は呼んでいますが、自分の身体の状態も知れるし、踊った後に余計なものが振り落とされたような感覚になれるんですよね。
音楽に合わせて動くだけでそれが体験できる、いわば「動く瞑想」のような場です。「動」の性質が強い人にはすごく向いていると思います。
ー 学生時代にもダンスをやっていらっしゃったかと思いますが、その時とは違う感じでしょうか?
全然違いますね(笑)。学生時代にやっていたダンスは、学生のサークルでありながら、エンターテイメントとしてお客様を楽しませよう、かっこよく魅せようというという意識がすごく強くて。
実は、社会人になった時「私はこのダンスを続けて行くのは無理だな」と急に冷めてしまってずっとやっていなかったんですよね。
ちょっと不思議な話なんですけど、ダンスを再開する少し前まで「ダンスのステージで振りを間違えてしまう」という悪夢を定期的に見ていました。
ー それは、何の深層心理なんでしょうね?
振り付けがあって、立ち居位置が決まっていて、正解をクリアするというダンスに、私自身がすごくプレッシャーを感じていたのだと思います。
「エクスタティック・ダンス」という2〜3時間くらい音楽をかけてずっと踊るというムーブメントがあるんですが知ってますか?
ー 初めて聞きました!
今世界中で「エクスタティック・ダンス」の場があるのですが、3年前にバリ島のウブドに行った時にそれに参加したんです。自分の身体を感じながら動くだけのエクスタティック・ダンスに参加していたら、一気に私の中のダンス愛が噴き出して「あぁ、私ダンスめっちゃ好きだった!」と本当に感動しました!
学生時代にやっていたかっこよく魅せるダンスは、ショーダンスの才能がある人はいいけど、私は無理して頑張ってたなと気付きました。それで、今は自分を喜ばせるためだけに踊るというダンスをやっています。
そしたら、悪夢も見なくなったんです(笑)
ー 「無理して頑張ってた」というお話が出てきましたが、最初の方でに出てきた「ガイアックスを背負ってしまっている感覚があった」というお話も含めて、三沙代さん頑張りすぎてたのかなと感じました。
私頑張り屋なんですよ(笑)。
ー それを周りが背負わせてしまっていたのかなとも感じました。三沙代さんって側で見ていてすごくかっこいいんです。意見をバリバリ言って行動もする、事業を率いる若き女性リーダーって感じで。みんなが思うかっこいい三沙代さんを背負わせてしまったかな?
確かにその部分は大きく変わりましたね。
ガイアックスにいた頃までは、自分の軸が外にあったように感じます。誰かに評価されたり、喜ばせたりするということ、外的な評価が自分への評価でしたね。
そういうことに喜びを感じるタイプで、そういう期待に応える自分も好きではありました。
私、上の子を産んだ時に産後うつになってしまったんですよ。ガイアックスを卒業してこっちに来て2ヶ月後に出産して、急な環境の変化、初めて親になること、授乳が上手くいかないこと、産後の体調不良…色々重なって毎日泣いているような日々でした。
誰しもすぐに弱者になるということも体験して分かったし、肩書きもなければ、友達もいない、どん底からここでの生活が始まったことで、「こんな私なんだ」と外的ではなく内的な評価で「自分として自分を認めて愛してあげる」ことに気づけるようになっていった、これはここ10年での大きな変化ですね。
「個として生きる」のもまずはそこからかなと感じています。
ー そっかぁ。あぁ、でもやっぱり三沙代さんはかっこいいなぁ!他の人より、何かに気が付くのが早いんだと思う!
上田さんもよくそう言ってくれます(笑)
私、東京生まれ東京育ちだけど、野生の感覚を持っていたんだろうなと感じています。それで海に呼ばれちゃった、みたいな(笑)
ー 海に呼ばれちゃった(笑)。小さい頃からそういう感覚は強かったんですか?
思い出すのは私の家の前にあった地主の「鈴木さん家」かなと思います。
鈴木さんは大地主さんで「山一個がおうち」というような感じだったんです。親族みなさんで暮らしていたので、その家に同級生が3人いて、山でよく遊んでいました。その時の感覚が自分の中に強く残っています。
今の田原の家が「鈴木さん家みたいだなぁ」って思うんですよ(笑)。
ー わぁ。つながるなぁ〜。じゃぁ、今まさにご自身の原点である「鈴木さん家」で冒頭でおっしゃっていた「ただの三沙代」で生きているような感じですか?
そうそう(笑)。あ、最近歌も歌ってるんですよ。
歌も学生時代にやっていて、CDを出したりしていました。歌もやっぱり期待に応えていたところが大きくて、社会人で忙しくなったこともありやめていたんです。
でも、自分の中から沸いてくる、心の内からの歌を歌いたい、そういったものを発表していきたいなという気持ちに最近なっているんです。
ダンスの仲間と声を出すボイスワークをやったりして、歌の活動もしています。
だから、本当に原点ですよね。自分の好きなものだけにまたシュッと戻ってきている感覚です。
ー 歌もダンスも好きだった!
そう!歌って踊ってさえいれば私はOK!
ー そっか、それが三沙代さんなんだ。
そうそう(笑)。Nagatacho GRiD(*2)には広いスペースがあるから、そこでみんなでダンスをすることは私の夢の一つです。
上手く踊ろうって外の評価を気にせずに、目をつぶって、自分の繭の中で自分の身体を感じるだけで良くて、それが私にとっての大事なダンスなんです。
(*2)Nagatacho GRiD…ガイアックスの本社があるコミュニティビル
ー そんな三沙代さんが人生で一番にしていることはなんですか?
本音で生きること!心も身体も本音で生きること!
そのためには、ちょっと立ち止まって「自分の身体だけになる」「自分の身体や心の状態をじっと感じる」そんな時間が大事だと思います。
ガイアックスにいた頃は忙しすぎたかな(笑)。期待に応えることは好きだったし、期待されると頑張っちゃうし、そのためには「離れる」ということが私にとっては必要なことだったんだろうなと感じています。
ー 最後に上田さんにメッセージありますか?
会いたいです!上田さんの話を初めて聞いて「面白いな!」と感じた時から、上田さんって「未来から来てるのかな?」と思うような感覚があるんですよね。
上田さんの未来観ってすごく面白くて、会うといつも「未来はあーでもない、こーでもない」という話をしていたことを思い出します。またそういった語り合いをしたいですね。
ー 三沙代さん、ありがとうございました!
久しぶりに三沙代さんとお話して、ただただ「会いたいなぁ!」と思いました。一緒に歌ったり踊ったりしたい。文字にするとなんとも単純な感想(笑)。でも、今回のインタビューで三沙代さんから出てきた「身体性」というキーワード、それをもっと一緒に感じたいと思ったら、もう素直に「会いたい」という想いしか出てきませんでした。そして、三沙代さんはやっぱり最高にかっこいい!